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癒し工学からの提言 癒しを創る 東京工業大学大学院 理工学研究科 機械理工学専攻 助教 北岡哲子先生

様々な心の不安が渦巻く現代社会、それを少しでも解消しようとするかのように、人々は心に癒しを与えてくれるものを探し求めています。温泉やアロマセラピーがブームになるだけでなく、癒しグッズと呼ばれる商品が登場したり、癒し系などという人や物に対する形容語まで現れるようになりました。そんな癒しを、定義し科学的に分析することから始めて、その工学的な再現を目指そうという学際的な研究に注目が集まっています。

提唱者である北岡哲子先生に、癒し工学とは何か、その可能性についてお聞きしました。

表情認識癒し工学

車を運転する人の顔の表情を読み取って、眠そうだなと判断したら「もうすぐサービスエリアがありますよ」とマスコットロボットが声をかけてくれるような車の開発がすでに始められています。これには人間の顔画像から、心の状態を読み取る表情認識や顔全体の動き検出の技術などがベースになっています。表情心理学において人間の基本6感情は、44ある顔の筋肉の動きの組み合わせに還元できるというポール・エクマン(Paul Ekman :アメリカの心理学者:1934~)の研究がよく知られています。エクマンは様々な実験を通じて、顔の筋肉の動きと感情との対応関係は、ヨーロッパの貴族にも、鏡の存在も知らないアフリカの未開の現地人や生まれつき全盲の人にも共通するものであることを示しました。

自殺者が年間3万人を超える現代社会において、職場や家庭で強いストレスを感じうつ症状を呈する人が激増しています。私は、普通に生きていくだけで心の健康が阻害されることが多い社会の中で、人々の心を少しでも良い状態にもっていくことができる方法はないか熟考を重ねてきました。その中で、漠然とした概念でいろいろな使い方をされているけれど、誰もが好ましく感じる、「癒し」というものに関心をもち、癒しを科学し工学的に実現することを目指したいと考えるに至ったわけです。

癒しとは何か(「知る」)、癒されるとはどういう状態なのか。(「測る」)、そしてそれを踏まえて、癒しを工学的に「創る」という研究です。

癒しを定義し分析する

まず最初、癒しそのものを定義することが必要でした。癒しは社会でいろいろな場面に使われていますが、癒しの本質を解明することから始めました。1988年にマスコミに初めて≪癒し≫という概念を提示した本学の上田紀行准教授の説【コラム参照】を踏まえ、人が癒しを求めるのは「心に≪共にある≫≪受容される≫≪自分の居場所を取り戻す≫を実感できないからである」と捉え、癒しを「充たされない心を独力で緩和したり、解放したりすることが不可能な人の心を、より好ましい状態に戻す刺激」と、癒されるをその「プロセス」と定義しました。そして癒し刺激は、癒されたという状態を作りだすきっかけとなる人、事象全てが関与すると考えました。

次に取りかかったのは癒しとはどのような特徴を含む刺激なのか、それを分析しました。世間で人気の高い癒しグッズを調査・収集し、人はそのグッズのどんなところに癒しを感じ、その時の心の状態はどのようであるかを実験的に明らかにしました。市場調査の結果、ヒット商品になっている癒しグッズを67点集め、被験者にもっとも癒されたグッズ3点を選択してもらい、言葉でそのグッズのもつ特徴と、自分の心の状態を回答してもらいました。人が癒される物は、なつかしい、きれい、かわいいという3つの要素をもっていることがわかりました。

また人は人に癒されるのは周知の事実ですし、人の表情も人を癒す刺激となりうるという考えから、顔画像のサンプルを用意し被験者に見せ、癒される顔を選んでもらうという実験も行いました。この結果を工学的な顔表情学習システムで心理実験と比較し、顔表情のどの部分が癒しに関係しているかを明らかにしました。

今後の展望

現在癒しを科学し、工学的にアプローチしようという試みは、虚しい心から生じる様々な社会的問題行動を未然に防ぐ効果もあるのではないかという期待から、さまざまな分野の研究者の注目を集めるようになりました。現在、私の主宰する癒し工学研究会には、工学は勿論のこと心理学や哲学、芸術などの人文・社会科学、また医学など、異分野で先端的な研究をされている先生方がたくさん集まってこられています。まさに、現代が求めている学際的研究領域の始まりです。

具体的研究例の一つは、うつ症状を呈する患者さんに対して、癒し刺激を組み込んだ検査キットを作制し、検査することで患者さんが癒され、うつ症状を改善できるデータを心療内科・脳外科の現場と連携し得ることができました。現在はこのキットの精度を上げるとともに、うつの診断をする医療者をサポートできる「うつ表情分析システム」の開発に力を注いでいます。

今後も、人々の癒しを求める気持ちは高まると予想されますから、他分野の研究においても癒しはキーワードとなっていくものと考えられます。癒し工学が社会的問題の解決に貢献できる工学として発展していくことを期待しています。

癒しはIYASHI

一般的に癒しはHealingと直訳されている。Healingは元来治療や宗教的意味合いが強いため、本定義の癒しと意味が異なる。また温泉やマッサージ、睡眠などはリラクゼーションであり、共にある・受容される・自分の居場所を取り戻すという癒しの本質を含んでいない点で、北岡の癒しの定義の範囲ではない。

いつ、だれが

1988年に、文化人類学者、上田紀行東京工業大学大学院准教授がスリランカの悪魔祓いの儀式を、こう表現したことに始まる。上田准教授によると、悪魔祓いとは単なる病気の治療だけではなく、人と人のつながりを取り戻す儀式とされる。1990年代初頭、バブル崩壊で、心身共に疲弊しきった日本社会に「癒し」という言葉は浸透し、1999年には流行語トップ10賞を受賞。その後癒しブームが訪れるなど、今に至るまで人々の心を捉えて離さない。

Profile
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東京工業大学大学院 理工学研究科 機械理工学専攻 助教

北岡 哲子 先生

異分野から工学の世界に飛びこみ、北岡オリジナルの「癒し工学」を提唱し社会貢献を目指す。工学・心理学・脳科学・芸術を結びつけ学際的研究に従事している。2008年12月に日本機械学会計算力学部門に「癒し工学研究会」を設立。09年、東京工業大学において博士(工学)を取得。日本機械学会、感性工学会、日本早期認知症学会、脳電位学会会員。2011年日本機械学会「癒し工学研究分科会」主査。青山学院高等部出身。

※この記事は、大学ジャーナル2011年12月号(Vol.97)に掲載された当時のものです。