トップが語る、「大学」と高校生へのメッセージ

立教大学総長 吉岡知哉先生「教養と自由が未来をひらく」

吉岡知哉先生の写真

大学の4年間でどんな力を身につけたいのか。そのためにはどんな大学を選ぶのか。

世界に通用する学士力を目指して、古くて新しい≪教養≫の二文字が大きくクローズアップされるようになってきました。

昨年、135周年を迎えた立教大学は、開設以来、キリスト教に基づく教育を理念として掲げ、教養教育と、それによって得られる自由の精神とを大切に守り育ててきました。

都心の一画に忽然と姿を現す、ツタの絡まる建物とともに、その伝統と革新性は受験生の心を惹きつけて止まないようです。

今春から新しい立教大学の顔となられた吉岡知哉総長に、教養と自由、高校生にとって大切なことなどについてお聞きしました。

大学とは何か。なぜ大学へ行くのか。

立教大学の写真

真正面からこの問いに正確に答えることは簡単ではありません。今から40年ほど前の私たちは、高校時代、大学進学を前に大学生と同じようにこの問題について考え、大いに議論したものです。中には社会に対して、自分たちなりの主張を行動で示した仲間もいます。

残念ながら答えは出ないままでした。あれから半世紀近くたった今、大学のあり方やその社会の中での位置付けはずいぶん変わりました。にもかかわらず、「大学とは何か」を問うことには今も大きな意味があります。むしろ、そのような根源的な問いを発しうる場所であることに、大学という存在の意義があるというべきでしょう。

高校時代は受験を意識しなければなりませんから、どうしても効率が優先されがちです。それが本当に≪効率的≫かどうかは別にして、ムダな時間はあまり過ごしたくないとみなさんが考えるのも無理はないと思います。しかしそこを通り抜けて足を踏み入れる大学は、そんな高校時代とはおそらく全く異質の場所であるに違いありません。

私たちは立教大学を自由の学府と呼んでいます。高校と違ってすべてに亘って自由である※1と同時に、自分自身を自由にするための場所だからです。

大学は、社会や企業がその時々に求める知識や技術を身につけるためだけの、あるいは資格を得るためだけの場ではありません。「人間とは何か」、「人は何のために生きるのか」、「真の友情とは何か」といったような、人間の存在にとって基本的な問いや、「宇宙の果てはどうなっているのか」、「星はどうして生まれたのか」、「生命の起源とは」などといった事物の根源についての問いを自分自身に投げかけ、時にはそれらについて友人や先生と議論を闘わす場でもあるのです。これらの問いは、単純に答えの出るものでもありませんし、問うこと自体が何かの役に立つかどうかもわかりません。しかしこれらのことについても、真剣に考える場が大学であり、それを通じて教養というものが育まれるとも言えるのです。

私の専門は、近代フランスの思想家ルソーを中心にした政治思想史ですが、18世紀のルソーの言う自由と、19世紀のイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルの言う自由とはずいぶん違います。そんなところからも≪自由とは何か≫についてたくさんの議論を始めることができます。これらの議論では結論が出なくてもかまいませんし、それが何かの役に立つかどうかを考える必要もありません。むしろ無駄なことだと言って、そういうことを一度も経験せずに人生を送ることこそ、私にはとても危険に思えるのです。

今の社会で必要とされるのとは少し違う訓練ができるのも大学です。私はラグビー部の部長を勤めてきましたが、大学の課外活動の一環である学生スポーツでは、利害を離れて純粋に勝つ喜びのために、全員が一致団結して苦しい練習を重ね、一緒に作戦を練ります。しかもそれに24時間かけることも許されるのです。こんなことは社会へ出てからは到底できないことですし、それを通じてしか学べないことはたくさんあるのです。

そもそも人はその時々に必要な知識や利益を得るためだけに生きているのではありません。食べたり飲んだりするのと同じように、純粋に考えるため、知るためにも生きています。ですから、大学で行う基礎研究は、将来の役に立つというだけでなく、それ自体で人間が生きていることの一つの証にもなるのです。また、ある技術を身につけるにしても、大学ではそのことだけを目的にするのではなく、その技術の持つ社会的な意味や応用の仕方、役に立つ使い方を考えます。そこに、一人ひとりの人間の持っている可能性を広げていくという大学の大きな役割があるわけですし、言い方を変えれば、大学とはすぐには役に立たないようなことにでも真正面から取り組める、この世界で恐らく唯一の場なのです。

※1 自律性、自発性、多様性が、自由であるために最低限必要であると吉岡先生は言う。

☆例えばこんな議論が展開できる、と吉岡先生。「自由は自由と正反対の意見も認めなければならないのか」とか、「完全にすべてを否定するような思想についても思想の自由はあるか」。あるいはそこから発展して、「戦争をなくすための戦争は肯定されるべきか」、あるいは「たくさんの人を殺害した独裁者に対するテロは正当化できるか」などといった具合だ。

今なぜ教養、リベラルアーツ※2
立教とリベラルアーツ

私たちが高校時代に大学とは何かを様々に思い悩んでいた時代と今とでは、社会における大学のあり方や役割も、そこで学ぶ事柄や知識の形態も大きく変わってきました。とくに1990年代以降は、大学で学ぶことの制度的な見直し(大綱化※3)が行われ、それまで1、2年次で行っていた一般教育(教養教育とも呼ぶ)とそれを担ってきた教養部が、ほとんどの大学で廃止されました。一般教育の上に専門知識がそそり立つという旧来のシステムが、その時から崩れ始めたのです。

さらに同世代の半分が大学に進学する現在、大学は、社会と独立して存在する知の集積場から、社会のニーズを自らの内に取り込むとともに、社会に対して開かれた存在へと変貌してきました。提供される知識の形式も、かつてのようにごく一部の人の間で蓄積されるものから、様々なところで共有され、しかもお互いが結びつくネットワーク型のものに変わってきています。中身も、書物に書いてあること、あるいは一つの理論のようにごく狭い範囲のものから、社会との相互関係を重視した全体としての知識、いわゆる教養へと変わってきたのです。もちろんそれは、かつての旧制高校的な※4教養のイメージではなく、現代社会の中で必要とされる人間の生き方を支え、様々に発展していく知識と技術を通して未来を構想する力なのです。

今日のように変化の激しい時代では、その時々の社会ですぐに役に立つものは10年も経たないうちに役に立たなくなってしまいます。また10数年前ぐらいから最先端の学問分野で始まった他の分野への越境は、今やあらゆる領域、分野にまで広がってきました。そのためいくら専門的に細かいことを身につけても、それだけでは研究者として、また企業人としてやっていけなくなってきたのです。

今、求められるのは、知識の形態、体系がある程度変わってもついていける柔軟さ、いくつもの知識を比べ判断できる能力、つまり教養なのです。教養とは、もはや従来の専門知識の基礎、下にあるものではなく、全体を包括する知識、力といってもいいかもしれません。もちろんそれだけを取り出すことはできませんから、専門的な学びと結び付くことが必要ですが、これは裏返せば、専門というものも、かつてのように純粋な形では成り立たないことも意味しています。

確かに大綱化以降しばらくは、専門教育だけを重視する風潮も見られました。しかし多くの大学は教養教育が不可欠であることを理解していましたから、それをどのような仕組み、システムで改編するかを模索していたのです。それが最近になって、多くの大学で教養教育、リベラルアーツ教育を学部教育の前面に押し出すような動きにつながってきているのです。

本学は136年前の1874年、アメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教によって設立されました。当時の風潮であった実用の学を習得するのでもなく、国主導で作られた官学のように統治者の養成を目的にするのでもなく、聖書教育を柱にした英学教育を通じて、人間の全人格的な育成を教育目的にしてきました。モデルとなったのはアメリカにおけるリベラルアーツ教育のシステムでしたから、本学はリベラルアーツ教育においては日本での先駆的な存在であり、「自由の学府」というキャッチフレーズもここに由来しているのです。

※2 リベラルアーツとは、文字通り人が自由であるための教養という意味で、その考え方はギリシャ時代に起源をもちます。6、7世紀にヨーロッパで形が整えられ、大学ができ始めた13世紀には、神学、法学、医学の専門職業教育に進む前に修めるべき学問として自由7科目★が公式に定められました。これが明治以来、日本の大学では教養教育、あるいは専門教育に対する一般教育として受け継がれてきました。
★算術・幾何・天文・音楽の数学4科と文法・修辞・弁証法(論理学)の言語3科学とからなる。この上位にこれらを統治するものとして哲学がある。

※3 大学設置基準の大綱化 1991年、それまで大学のカリキュラム等について詳細に定められていた規制が大幅に緩和されたこと。これによって各大学では1、2年次に必ずしも教養課程を置く必要がなくなった。

※4 6年制中学校から接続する2年制の教育課程で、国立大学への準備教育が目的。全国に8校置かれ、全寮制で濃密な教養教育が行われていた。

高校時代に心掛けてほしいこと
好奇心を持ち続けること

人間の成長、能力の全体的発展にとって大事なことは好奇心、新しいことに驚く力を持ち続けることです。近年、入学してくる学生の基礎学力が問題になっていますが、私はむしろ、面白い、つまり自分なりに突出したものを持っている学生が少ないことが気がかりです。それが受験体制によるものなのかどうかは別にして、どうもムダなこと、余計なことをあまり考えなくなっているのがその原因ではないかと見ています。

しかし受験勉強においても、多少脱線したり、入試に一見無関係なことを調べたりすることは周辺の理解を深め、ムダどころか、かえってプラスになるはずです。「フランス革命は1789年」とただ覚えるよりも、時には教科書や参考書を離れて、その時代や他の事象について専門家の書いたものを新書などで読んでみる方が、同じことを学ぶにしてもずっと楽しいですし、理解も深まります。このことは理科系の学問ではもっと顕著だと思います。物理のあるテーマに興味が出てくれば、それを理解するのに未知の数学分野にも踏み込む必要が出てくるでしょう。それが受験に役立たないはずはありません。

そもそも学問にはムダが欠かせません。これから大学で真剣に学ぼうと考えているみなさんなら、少しでも早く自分が面白いと思えるものを見つけ、多少、回り道のように思えてもそれに夢中になってみることです。私のこれまでの経験では、高校時代にそういう経験を積んできた人の方が、受験用に、何でも一通りきちんと覚えてきただけの人よりも、大学へ入ってからは伸びるものです。

本を読むこと

ところで、ムダなことをあまり避けていると、かつてなら誰でもが知っていた知識、教養の基礎ともいうべきものまでが欠けたまま、ということにもなりかねません。これでは学生同士の、あるいは先生とのコミュニケーションにも支障をきたします。大学という学問をする場で、お互いがお互いを理解し合うための共通の知識や考え方が共有できないからです。これは近年の目立った傾向ですが、原因の一つには読書不足があげられます。

読書も、ムダを省いて効率を上げようという姿勢の対極にあります。例えば映像で15分見てわかった気になれるものが、読書ではその何倍もの時間とエネルギーがかかります。しかしそれで得た理解は、「なんとなくわかった気になったもの」とは違います。

文字で書かれたもの、言葉で構成されたものを理解する力は、論理的な思考力につながるものですし、教養の根幹をなすものです。高校時代には、ぜひ教養の宝庫である本の世界に親しんでほしいと思います。まずは評価のすでに定まった古典を中心に選ぶといいと思います。読書はまた、興味を持てるものをできるだけ早く見つけるという意味でも大切です。

自分で考え、自分の言葉で語ることと、外国語を学ぶこと

もう一つ、高校時代から心がけてきてほしいことは、自分で考え、自分の言葉で語る訓練をしておくということです。大学でプレゼンテーションの力をあげるにも、この基本的部分が抜け落ちているとなかなか上達が望めません。プレゼンテーションには何か特別の型や、それを身につけるための技術があるわけではないからです。そのためには、読書で読む力を養うのと同じように、聞く力を身につけること、他人の言葉、他人の考え方を理解する力を養うことです。

外国語を身につけることは、コミュニケーションの手段という意味からも教養の基礎中の基礎ですが、その学習自体もそのための絶好の訓練となります。何もきれいな発音で、流暢に話すことを目標とする必要はありません。外国語を覚えるということは、自分の言語体系とは違う体系を理解し身につけることですから、学ぶこと自体に意味があるのです。本を読むのと同じで、未知の世界に触れることで、自分の中に今までなかった新しい世界ができる。当然、理解できる言語が増えれば増えるほど、自分の世界も広がります。大学へ入った暁には、第二外国語、第三外国語として、ヨーロッパの言葉やアジアの言語などにもぜひチャレンジしてほしいと思います。

新しい言語の習得に限らず、みなさんの年齢は様々な可能性に満ちた時代です。そのことを踏まえて、自分はなぜ大学へ行くのか、どんな大学へ行きたいのかをしっかりと考えてほしいと思います。

Profile

立教大学 総長

吉岡 知哉先生

1953年東京都生まれ。76年東京大学法学部卒業。80年4月立教大学法学部助手に着任。同講師・助教授を経て、90年4月より同教授。2002年から2005年同大学法学部長。2010年4月立教大学第19代総長。法学博士。専門は政治学(欧州政治思想史)。主著に『ジャン=ジャック・ルソー論』。東京教育大学附属駒場高等学校出身。

※この記事は、大学ジャーナル2010年7月号(Vol.88)に掲載された当時のものです。