トップが語る、「大学」と高校生へのメッセージ

関西学院大学学長 井上琢智先生「垣根なき学びのために」

井上琢智先生の写真

1905(明治38)年に来日し、日本各地にさまざまな建造物を残した宣教師ヴォーリズ。現在の兵庫県西宮市に展開する関西学院もその一つ※1。広々とした中央芝生の奥には、かつて図書館だった時計台を構え、左右には社会科学系と人文科学系学部の建物が分かれて並ぶ。

「中央芝生はそれぞれの専門家が自由に交流することを可能としていて、キャンパスそのものがリベラルアーツの装置そのものだった」と語る学長の井上琢智教授に、大学とは何か、大学で学ぶ意味と、高校生へのメッセージをお聞きしました。

※1 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrel Vories 1880年10月28日~1964年5月7日)は、アメリカ合衆国に生まれ、近江八幡商業学校の教師として来日、宣教活動を開始する一方、メンソレータムなど販売。1908年建築設計監督事務所を開き、その後、日本で学校建築や数多くの西洋建築を手懸けた。スパニッシュ・ミッション・スタイルの関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス建築群(1929年建設、現在、経済産業省選定「近代化産業遺産群」に指定)には、中央芝生を囲んで、神学部、文学部、時計台(旧図書館、国の登録有形文化財)、学院本部、中央講堂、経済学部が建設され、さらに外国人住宅(宣教師館)も設けられた。

学問はもっと面白い

みなさんは今、たまたまこのタブロイド紙を手に取ってくださったところですから、そこから私は経済学や大学の話を始めたいと思います。

経済学には限界費用という言葉があります。物を生産する際には、材料などの原価、人件費など、直接生産にかかる費用、それに工場や設備などへの投資など間接的にかかる費用が発生します。限界費用とは、一単位の物の生産を増やすのに必要な費用の増加分のことなのですが、その費用は物の一単位毎に異なります。例えば、他の費用が一定と仮定し、電力で動く輪転機によるこのタブロイド紙の印刷を考えてみて下さい。輪転機を始動する際には、多くの電力が必要ですから高い費用がかかります。ただ、輪転機を止めても、惰性で輪転機は回りますから、最後の何枚かの電気代はただですね。でも、このタブロイド紙はフリーペーパーですが、もし販売するとしたら、同じタブロイド紙ということで最後の何枚かも同じ価格で販売されます。

ところでこんな話をしても、実際に印刷の現場を見たことのない人には実感がわきません。つまり譬えが現実的ではないのです。

同じようなことは他の学部の他の分野の授業にも当てはまるかもしれません。学ぶ方からすると、今、学んでいることがどう役に立つかが直感的にわからないと、その内容を身近に感じられず、ひいては面白いものではなくなってしまいます。学問が現実と乖離してしまう、ということが起こるのです。

かつて私が経済学を学んだ頃は、経済、つまり経済活動というものについて、学生の多くはある程度わかっていましたから、それを抽象化して説明する経済学という学問はとても魅力的でした。学問は生きていたのです。

しかし現在は、社会の構造が変わってきたため、世の中の経済活動の仕組みを知らないまま大学に入学する学生が増えています。経済学部の授業では、経済学を教える以前にまず経済そのものを教えなければならないような状況が生まれています。若手の教員の中には、理論の説明に数学を使って教える人も少なくありませんが、学生が将来、みな経済学者になるわけではありませんし、数学の苦手な学生もいるわけです。数学を使わずに現実の経済に則して原理、原則を教えることも必要だと思います。

学問を面白くなくしている、つまり現実と関わり合いを見出しにくくしている原因は、学問自体の細分化にもあります。経済学に限らず、今や学問はそれぞれの分野で細分化され、その垣根が高くなってしまっています。お互いの姿が見えにくいだけでなく、同じ分野の研究者にも、自分たちの分野の全体像が見えにくくなっています。最初は"見方"であったものも、"分野"として分けてしまうと他との関連性が薄れ、しかもそれがさらに細分化されると、多くの人にとってはわかりづらく、味気のないものになってしまいます。生活や仕事の上でどう役に立つかを見ることができませんから、もともと問題意識を持っている人以外にはその面白さが捉えにくいのです。

近代科学が生まれたルネサンス期には、学者はきわめて広い分野に精通していましたし、○○学といった区別はほとんどなく、分野の垣根は低かったのです。学問は広義のPhilosophyと呼ばれ、世界全体を見るという視点から研究されてきました。Philosophyから学問の「分業」によってSciencesが生まれてきましたから、まさに福沢諭吉のいう「実学」という訳語は有効だったと思います。

このように、それぞれの分野が深められることで個別の科学が生まれ、それがさらに細かく分けられながら著しく進展し始めます。そのようなサイエンスの発展は目覚ましく、それが今日の科学・技術全盛の時代をもたらしてくれたことはいうまでもありません。ただ、その個別科学を成立させるために、科学者はムダなものを極力捨ててきましたから、その過程で、もしかしたら大事だったことを、あるいは、人を楽しくさせてくれるはずだったものを捨て去った可能性もあります。しかもそれは、捨てた本人以外には知る由もないことなのです。私はここに、現在の学問の「分業」による弊害の、一つの端緒があったのではないかと考えています。

関学の取り組み

関西学院大学の写真

1960年代の後半から1970年にかけての学園紛争の後、各大学では、大学における教育の在り方についての見直しが行われました。その中で本学は、いち早く、それまで≪研究・教育≫としていた大学の使命を、≪教育・研究≫といい直しています。このことは、大学とは研究の成果の一部を学生に与えるところであるという考えから、教育を重視するところであるという考え方、つまり建学当初の伝統であったリベラルアーツ、教養教育の原点に立ち戻ることを意味します。

1969年という早い時期には、学部間すなわち科学間(各学問の間)の垣根を低くし、現在では一般的にさえなっている学際的な取組を行うために、「総合コース」を開設しました。環境や人権といった現代的なテーマ、課題を設定し、様々な分野の教員が、それぞれの見方・アプローチから学生に考えさせようという試みです。また、1995年には現在の『「関学」学』の前身にあたる『日本の近代化と関西学院』を開講し、今日、多くの大学で行われているいわゆる「自校教育」でも先鞭をつけました。

ところでこの学院の開設期には、垣根というものがありませんでした。授業の合間や終了後には、学生も教員も建物から中央芝生に出て集い、自由に語り合うのが常でした。お互いに相手の分野に興味を持ち、その在り方を理解しようとしますから、そこからは複眼的な視点が生まれてきます。ある分野の専門家も、それ以外の分野では学ぶ立場ですから、教員同志、また教員と学生との距離も自ずと近いものになります。また教員の多くはキャンパス内に暮らしていましたし、寮に入っている学生も多かったですから、全人教育※2という意味でも優れた機能を果たしていたと思います。

生きた学問を学び、分野を越えて交流し、生活の一部を共有することで生きる力を養う。それがここまで十分にできてきたかは別にして、関西学院としてはこのような垣根なき大学※3の伝統を、21世紀という新しい時代にもう一度復活させたいと考えています。

※2 全人教育:「全人」とはintellectual & religious(知性と宗教性、もしくは精神性)の訳で、「全人教育」とは、人間として生きる力を身につける教育。関西学院は、キリスト教主義に基づく「全人教育」の下、「世界を視野におさめ、他者への思いやりと社会変革への気概を持ち、高い見識と倫理観を備えて自己を確立し、自らの大きな志をもって行動力を発揮する人」を育てることを目指す、としている。
※3 ≪垣根なきラーニングコミュニティ≫新基本構想・新中期計画より。

高校生へのメッセージ

高校生にとって受験勉強は大切ですが、その間も社会の中で生きているわけですから、そこで起きていることについては、常に敏感であってほしいと思います。またそのなかから、自分の興味のあるもの、大学で学ぶべきことも見えてくるにちがいありません。

もちろん、一旦決めたからといって、途中でそれを変えることに躊躇を覚える必要はありません。むしろ、変わることを前提に決めていくと考えたほうがいいかもしれません。大事なことは、まず選択し、決めること。決めなければ前へ進めないからです。そして一旦決めて、ある時それを諦めて、また決めて、諦めて、といったプロセスを繰り返していくうちに、自分がほんとうに納得できるものが見つかってくるのだと思います。

高校時代には、価値観が比較的伴わないスキルに当たるようなものについては、徹底的に身につけておいてほしいと思います。近年はどんな大学にも、高校時代にあまり深く学ばなかった科目について学んだり、しっかり仕上げられなかった科目を学び直したりできる仕組みが整っています。しかし、せっかく大学へ入ったのですから、そんなことに時間を費やすより、少しでも多く大学の学問に触れた方がいいに決まっています。前へ進むためにも、高校時代は高校時代として、課された勉強や課題はしっかりとこなしておくことです。

昨今は、大学における学問の在り方と同時に、大学を出てからの職業選択についても過渡期を迎えていると思います。理系はともかく、多くの学生が進む文系では、大学を出た学生は全員ホワイトカラーになるといった従来の図式が、環境問題、食料問題に加えて、少子化や情報化・グローバル化で大きく揺らいでいるからです。就職氷河期というよりもその前提となる社会や企業の在り方が大きく変わりつつあるのです。今は極端に言えば、大学を出て第二次産業だけでなく、第一産業といった生産現場へ行くことも視野に入れなければならない時代なのかもしれません。であれば、学問とは命や生活を守るためのもの、生きるための道具であるという本来の在り方を、ここらで真剣に取り戻す必要があると思います。

高校時代や大学時代というのは社会の大きな流れや仕組みに目を向け、どんな時代になっても自分はやっていけるという確たる信念を持ち、それを実現できる能力をつける時期です。現代ではその重みが一段と増しているはずですから、垣根なき学問、リベラルアーツによる全人教育に寄せられる期待は、これまで以上に大きいと思っています。

エピソードJ

Jはフランス語で青春を表すjeunesseの頭文字。お話をお聞きする先生方に、読者のみなさんの時代を振り返っていただいています。

職人や町工場の並ぶ下町で育った井上少年。手先が器用で、自分で物を作るのが好き。それもプラモデルのような単なるキットの組み立てではない。模型飛行機も、部品作りから始める。圧巻はロケット作り。糸川英男によるペンシル・ロケットの国産で世の中が湧いていた頃だ。固形燃料を買ってきて、それをアルミの板で巻いてロケットを作った。その勢いで一旦は、当時、宇宙工学のあった東京大学と名古屋大学への進学を考えたが、実力不足とわかってあっさり断念。模型の家作りも得意だったため、次に建築家を目指すが、これも職業適性検査で最も適性のない仕事と分かって断念。最終的には商売人の子だからと、経済を選び現在に至る。商学へ進まなかったのは人のお金を数えるのに興味がわかなかったから、という。

Profile

関西学院大学 学長

井上 琢智先生

1970年3月関西学院大学経済学部卒業、1972年3月関西学院大学大学院経済学研究科修士課程修了、1975年3月関西学院大学大学院経済学研究科博士課程単位修得、経済学博士(関西学院大学)。1981年4月大阪商業大学助教授(至1985年3月)を経て、1985年4月関西学院大学経済学部助教授、1988年4月関西学院大学経済学部教授 1998年4月関西学院大学経済学部長(至2001年3月)、その後、関西学院大学図書館長(至2007年3月)、関西学院大学副学長(至2009年3月)などを経て現在に至る。専攻はイギリス経済思想史、日本経済思想史。著書に2006年、『黎明期日本の経済思想』(日本評論社)、1987年、『ジェヴォンズの思想と経済学 』(日本評論社)がある。京都府立東舞鶴高校出身。

※この記事は、大学ジャーナル2011年7月号(Vol.94)に掲載された当時のものです。